ほくせいネット

うつくしい自然が産んだ歴史に人に会いに行こう

観光情報 sightseeingtourism

国本エリア

橋供養碑

ここ久武川にかかる神郷橋は、昔は大谷石の太鼓橋だったそうである。ちょっとした大水でもすぐに橋が流されてしまったことから橋の安全を水神様にお願いして石碑を建てたといわれている。

日枝神社

平安時代後期、奥州の豪族安部氏の反乱(前九年の役)を征討する源頼義軍に藤原宗円は戦勝祈願の獅子舞を伴い随行した。宗円の祈梼の甲斐あり討伐することができ、その功績で宇都宮大明神(二荒山神社)の社務職(神宮の長)に任じられ館(宇都宮城の元となる)を築くと近江国の日吉神社から分霊を勘請し、この日枝神社を建立し、獅子舞を奉納したのが起源と伝承されている。

十九夜碑

月待信仰とは特定の月齢の夜に集まり、仲間と飲食などを共にした後、お経などを唱えて悪霊を追い払う行事をいう。十九夜講中はたいてい大字単位で、女性のみの集まりで安産・子授など信仰がされていた。この碑は明治17年建立で、石造りの蓮弁の上に太い竿を置き如意輪観音を浮き彫りしている。

二ヶ山遺跡(眺望スポット)

縄文中期から後期にかけて大集落があったと考えられており、遺跡からは矢じりや土器が約1000点も出土されている。新里地区における絶景の眺望スポットである。

野州人車鉄道跡

明治32年2月、新里石、農産物、薪炭、木材などの運搬を目的に下戸祭~新里間で運用開始された。その後、客車運行も始まり広く社会に寄与するものであった。その後、大谷石が大量に産出されるようになり明治39年に宇都宮軌道運輸会社に併合、大正13年に新里線は廃線となった。

藤本館

南(110m)・北(73m)・東(90m)の堀と土塁が巡り、堀の幅は約8~10m、深さ約5m。築造年代は室町時代と考えられる。高橋家はもともと源頼朝の重臣であり、源氏の滅亡とともに三河の地を離れ、宇都宮氏の支配下にはいったと伝承されている。

お経塚

経塚とは、経典を書き写し銅製の箱に入れて塚に収めたもので、この塚は豪農が死別した妻の供養、村民の安寧な暮らしを祈願し下野三十三観音霊場を巡礼し奉納したことを記念して築いたものと言われている。江戸時代のタイムカプセルのようなものであったろう。

岩本道祖神

この道祖神は岩本街道の辻にあり、村の境を守りの悪霊の侵入を遮る神である。その形態は陰陽石で石祠の中に祀られている。

岩本の摩崖仏(まがいぶつ)

岩壁に2体彫られている。左が地蔵菩薩像、右が馬頭観音。並べて彫ってあることから人々の健康祈願と野仏信仰を結び付け江戸時代後期、地元の石工が大谷寺の摩崖仏を模して造像されたといわれている。

石碑(巳侍塔、勝善神)

岩原町の巳侍塔は弘化2年に建立されたもので、己巳(つちのとのみ)の日に弁財天の祭りが行われ土地豊穣の神として崇敬されたもので、市内唯一の大きな石碑である。勝善神は馬の神様で農耕の守護神、家畜の神様、更に交通・運送の安全を祈願して村の入り口に明治元年に建立されたものである。

達磨(だるま)岩

いにしえの人たちは、幻想的な岩肌や大岩に神秘な心を抱き信仰の対象としてきた。南側から見上げるとあたかも達磨様の姿に見えることから達磨石と言われている(達磨岩は岩原神社のご神体として崇められている)。南側には国指定の名勝越路岩がある。

岩原城堀跡

築城は宇都宮氏が幕府で有力御家人として活躍していた鎌倉時代と思われる。桃山時代には長居日向守が長林寺を建て繁栄を極めていたが、豊臣秀吉の勘気に触れた宇都宮氏の改易に伴い落城し、その後は繁栄を見ず「ゆめ幻」の城になった。

大堀館跡1・2号

宇都宮氏の家臣半田氏の空堀が残る館の跡で、1号は東西90m、南北に96mで北から西にかけて大規模な空堀が見られる。2号は1号の南西にあり

お問い合わせはこちら

  • 宇都宮市北西部活性化
    ネットワーク地域協議会事務局

    028-665-8800
PAGETOP